杉戸の始まり
近世初頭の様子を描いたとされる「下総国絵図」や一六一九(元和五)年の須賀村検地帳写には「杉戸島」の記載がある。この「杉戸島」は現在の上杉戸付近を指すと考えられ、このあたりが元々杉戸の中心であったと伝えられている。
杉戸宿の成り立ち
杉戸宿は、一六一六(元和二)年に人馬継立を命じられ、成立したと言われている。当初は上・中・下町のみであったと考えられている。その後、河原組・新町が宿に組み入れられた。
日光街道は元々上杉戸方面を古利根川に沿って北上し和戸橋付近で御成道と合流するルートであったが、一六四七(正保四)年に現在のルートに付け替わっている。横町の形成は一六五八(万治元)年のことといわれている。また「日光道中分間延絵図」では、この新日光街道の杉戸から幸手に至る区間には柳が植えられていたことが確認できる。
杉戸宿の構成
宿駅としての杉戸宿は、江戸に近い方から新町、下町、中町、上町、河原組、横町から構成され、更には南端に清地村、北端に九軒茶屋(茶屋組)があり、宿場と連続した町場を形成していた。
一八四三(天保十四)年の「宿村大概帳」には、杉戸宿の長さ16町55間、道幅5間、家数365軒、人数1663人、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠屋46軒(大4軒、中7軒、小35軒)とある。